三輪・長谷

三輪の神杉
 しるしの神杉

「しるし」とは神の霊験のことで、元々は拝殿の前の斎庭に聳えていた。現在は根株のみが残っています。

その霊験の故か、このあと長谷寺に行き、広い境内をたった一人で散策する奇瑞が起こりました。


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其の1


竜之介は京を離れて、八木に現われた後、長谷、三輪、と進みます。
京の殺戮と色街の喧騒から少し離れたかったのでしょう。もちろん、神頼みのない竜之介ですから束の間の安らぎしか保てません。
八木はその当時、横大路、下つ道の交差する、大きな宿場街でした。
竜之介はそこの辻の饅頭屋で、わずか30文のお代が足らずに刀を抵当に差出し、そこに立ち寄った裏宿の七兵衛が竜之介の差し料武蔵太郎安国と分かって買い戻します。
「親方、いくらになる」
「饅頭の方が80文、刀はちと値が張ります」
「いくらで売る」
「はい、5両、ちと高うございますが、仕込みが安くございませんから」
30文の抵当に取った刀が僅かの後に5両に化けたわけですが、足許を見られてふっかけられるのは、旅をする者の宿命なのです。


三輪は、山そのものが神の磐座です。 この日は10月1日快晴の日曜日、月次祭とかで大変な人出でした。これでも人の通行の少ない時を狙って撮ったのです。

三輪神社


三輪本殿

巳の神杉。大物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名づけられた御神木。樹齢五〇〇年ともいわれています。
大層な石の二の鳥居ではなく、、石段を登った、注連縄の向こうに見えるのが本殿です。人出が多く、この角度で写真を撮るのはかなり苦労しました。

三輪鳥居


三輪巫女

本殿の中では古式の舞が行われていました。めったに見られないものなのでしばらく見惚れていました。


三輪駅

JR三輪駅
京都から奈良線で奈良まで、そこで桜井線に乗り換えます。三輪に停車する電車は30分に一本しかありません。
三輪磐座

三輪の神の磐座
社殿が無く、ひっそりと三輪山に鎮座しています。これが太古からつづく大神信仰のありようです。
三輪の神杉

しるしの神杉
「しるし」とは神の霊験のことで、元々は拝殿の前の斎庭に聳えていた。現在は根株のみが残っています。

一文無しである竜之介は仁徳者の三輪の植田丹後守の屋敷にしばらく逗留します。
そこで大津の湖で心中しそこなってひとり生き残っていたお豊と再会します。お豊は亡きお浜に生き写しの女です。
お豊は三輪の叔父の家に引き取られていましたが、横恋慕した道楽者の金蔵に付きまとわれて困り果て、植田丹後守の屋敷にかくまわれ、そこで剣術の先生をしている竜之介の姿をみかけたのです。
ふたりはいつしか心を通い合わせます。
おそらく長谷の観音さま、三輪の大神さまの導きだったのでしょう。
お浜のときには勢いで所帯を持ってしまった竜之介ですが、お豊には心ときめく恋情のようなものを感じたようです。共に傷を負っています。
『大菩薩峠』全編を通して、竜之介がゆったりとした気持ちになったのは、この三輪に居たときだけのような気がします。
しかし執念深い金蔵は簡単には引き下がりません。鉄砲を隠し持っているところを植田丹後守に見つかり、ついにはやけっぱちになって鉄砲を持ったまま山に逃げてしまったのです。
竜之介は父とも思う丹後守の願いで、お豊と叔父の薬屋源太郎を見護るために、馬に乗ってふたりのあとを進んで行きます。
そこに裏宿の七兵衛が現われ、宇津木兵馬と尋常の勝負をするよう、迫ります。
そのとき突然、銃声が聞こえ、竜之介とお豊の至純の愛は終わることになります。
 順序が逆ですが、八木の古跡を歩いて見ました。
近鉄大和八木駅と、JR桜井線畝傍駅との間の一帯が古代から中世、江戸の時代の大幹線道路横大路の走っていたところです。
畝傍駅は行幸列車の停まる橿原神宮もよりの駅ですが、さびれた無人駅でした。
『大菩薩峠』の物語にそって歩いているので、橿原神宮には足を向けず、札の辻に向かいます。

八木札の辻

札の辻 どの案内にも必ずこの角度から撮っています。広く見えますが、道幅は思いのほか、狭いものでした。この真ん中に高札が立って道中行きかう旅人に告知していたそうですから、この辻は大変な混みようだったはずです。

八木札の辻案内

左の札の辻交流館(東の平田家という元旅籠)の角に立っている標識です。見学は無料で自由に入れます。あまり訪れる人がないらしく、つきっきりで親切に説明してくれました。
八木一里塚

横大路の一里塚です。 まわりが現代建物ですから、うっかりすると見落してしまいます。

八木横大路案内

詳しい案内板ですが、興味のない人にはどうということのない
ただの板書きです。
八木大神宮

大神宮燈籠。うしろの囲いが消せれば、もっと映えた写真になると思いますがこういったものでしょう。
八木今井町

八木近くの今井町の景色です。ここはかなり広域に江戸時代の家並みを遺しています。


其の2

「これこれ、巡礼衆」
「はい、私どもに御用でございますか」
「ちと、物をたずねたいが、あの長谷の観音の籠堂と申すのは、誰が行っても差し支えないか」
「ええええ、差支えのある段ではございませぬ、人の世で見放されたものをも、お拾いなさるのが観音様のご利益でございます」
「左様か、かたじけない」
僻んで取れば、この巡礼の返答ぶりも癪にさわる。おれの今日の運命は自ら求めたもので、おれは落魄れても気儘の道を歩いているのだ、まだ神仏におすがり申して後生願うような心は起さぬ。

わが子を縁から蹴落とし出家入道を遂げた西行法師が、旧愛の妻に巡り会ったという長谷寺の籠堂。竜之介はともかくもここで夜を明かそうとして、その南の柱の下に来ました。
長谷を訪れた10月2日は、朝から雨でした。近鉄長谷寺駅に8時ごろに着き、そこから15分ほど歩いて長谷寺に着いたのですが、9時から入場とあって困っていると、受付所の準備に来たご婦人に「時間前ですが入れませんか」と声をかけたら「そこの柵の脇から入って下さい」と言われて大助かりでした。入山料500円です。
たったひとりの貸切で長谷寺を散策することができて、これも観音さまのご利益かと思ったものです。
9時からの入場者に合わせて所定の場所に向かうお坊様に何人も出会いましたが、誰ひとりとして怪訝に咎めるお坊様はありませんでした。
さすが、長谷寺です。



長谷道標

長谷歴史街道
長谷駅前から石段を下りた先に
あったように思います。
長谷寺

長谷寺
正面右手に総受付、
参拝者の休憩所があります。
長谷縁起

長谷縁起
これだけが頭に入れば、
長谷寺の案内人になれます。
長谷仁王門

長谷仁王門
楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置。
建物は明治27年の再建。
「長谷寺」額字は後陽成天皇の宸筆。
長谷寺回廊上り

長谷寺登廊上り
平安時代に造ったもので、
百八間、三九九段、上中下の三廊で、
中下廊は明治27年の再建。
長谷回廊下り

長谷登廊下り
風雅な長谷型灯籠が
吊り下がっています。
長谷寺道明上人

長谷寺道明上人
朱鳥元年(686)天武天皇御病気平癒のため、千仏多宝仏塔を鋳造し、
本尊としてお祀りしたとあります。
長谷寺順路

長谷寺順路
回廊途中の手雪ぎ所です。
蔵王堂、紀貫之歌碑なども近くにあります。
長谷寺紀貫之

長谷寺紀貫之
詠んでいる歌は
人はいさ心も知らずふるさとは
花ぞ昔の香ににほひけり
人気のない、厳かな回廊をゆっくり登って、上の本堂にやって来ました。このあたりからちらほらお坊さんの姿を見かけるようになりました。
しかし、これだけの大本山をよくもひとりで散策することができて、これも『大菩薩峠』の舞台を歩く、その一途がある故、竜之介のおかげです。
下山路は別の道を通ったので、やはり誰にも会わず、もしかしたらこれは奇跡的な一日なのかもしれません。
受付所のご婦人に礼を述べて長谷路を後にしたのは午前9時を少し回ったばかり、これから参拝者がやって来る時間です。

長谷寺本堂

長谷寺本堂
断崖絶壁に建っており、
左手に広い舞台が続いています。
長谷寺舞台

長谷寺本堂舞台からの眺め
これは絶景です。
舞台は違いますが、
石川五右衛門の気持ちになれます。
長谷寺100万円

長谷寺100万円の石碑
長谷寺に100万円の寄付を申し出たら、たぶんこの右の並びに自分の名前入りの石碑を建ててくれるのでしょう。考えれば妙な気持になります。

長谷本長谷寺

長谷本長谷寺
天武天皇の勅願で道明上人が精舎を造営したとあります。
この裏手で竜之介は一夜を明かしたようです。
三輪でお浜によく似たお豊に再開するのもわかるような気がします。
長谷五重塔

長谷寺五重塔
人っ子一人いない、小雨にけぶる長谷の五重塔です。
めったにお目にかからない、深山の趣です。


次は、伊賀上野鍵屋の辻、芭蕉屋敷、天誅組五條、など掲載します。