私の履歴書 |
2021.09.28 |
日経新聞に「私の履歴書」というコーナーがあった。 主に経済界の重鎮たちを取り上げているが、各界の著名人の場合もある。 長く実績を上げて来た人たちだから、興味津々な事績が綴られて、時にその人の武勇伝になるのは仕方ない。 自分には人に誇れる履歴はないが、人に語ってもいい、苦い思い出がある。 二・三、それを綴ってみる。 プラスになることでもないので、興味のない方は早々に退散してください。 50年以上も前の、20歳の頃だった。 その頃、倉敷のジャズ喫茶に入りびたっていた。 店が終わってから、麻雀卓を出して、大抵朝までチィポンをして青春を発散していた。 外が明るくなると止めて、一斉に塒に帰り、数時間眠って、仕事場に向かった。 麻雀仲間にXという、新米の教師になりたての奴がいた。 それが或る時、「君の住まいの近くに、アレが居るだろう、違う奴らが居るだろう」 当時はまだ、そういった時代だった。 Xは自分の真備町の隣りの矢掛町というところから倉敷に通って来ていた。 自分の住所を知るはずもないし、話す必要もないから、すっとぼけていた。 ただ、本人が教師と云う人間であるので、親から聞いたか、あるいは学校の資料にそのようなものが出回っていたのか、 「知らん、聞いたこともない」 そう答えながら、その時からアガリはすべて、こ奴の捨て牌を狙って「ロン」とやったのは言うまでもない、 自分は麻雀が強かった。 もう何十年もしていないが、盲牌もほとんどの牌で認識できた。 麻雀放浪記だとか、麻雀プロとかになろうかとか、本気で考えたこともある。 暁け方に、そろりと家の引き戸を開けると、そこに無言で座り込んでいる母親の姿を見つけて、一瞬に血の気が引き、それ以来、遅くとも2時には家に帰るようになった。 40歳を潮に会社を興して、順調に行き出した頃、一階に事務所と100坪ほどの倉庫、二階に社長室と会議室のテナントに入れるようになった頃、 或る日、電話が鳴った。 「社長、変な電話がかかって来ています。社長に代われと言っています」 事務の女の子が何か怯えているように切迫しているので、受話器を取ると、 「ああ、社長さん、いつもお世話になっております。いつもわしらにご理解いただいて感謝しております。実はな、社長はん、また新しいええ本が出たでな、協力してもらおうと思うて電話しておるで。ええな、また送るで、6万円じゃ。安いもんじゃ。社長はんにとってはタダみたいなもんじゃ。ええな、送るで。名刺を入れとく。何かあったら、わしらの名前を出せばええ」 当然、こんな押し売りに、ハイハイと付き合うわけにはいかない。 自分は岡山出身だから、相手の弁調にそれほど違和感はないが、こちらの事務のまだ世間を知らぬ女の子には、ヤバイ人からの電話だと逃げ出したのもよくわかる。 すぐに、その辺りを騙る、エセ連中だとわかった。 しかし、弱みもあった。付き合ってもいい、という安易な同根意識。 そこに追い打ちを掛けられる。 「都之さんは解放には同意できないと云うんか、コリャーわしらをなめとんのかー」とがなり立てる。 自分の名前を知っているのは、企業情報か何かで調べて、片っ端から電話を掛けているのだろう。 解放と言われては同意しないわけにはいかない。 話している内に、相手もこちらが只の臆病者ではないと感じたようで、最後には、 「すまんな、都之さん、わしらも苦しいんじゃ。協力に感謝する」 送られてきた本は、立派な装丁の大判のぶ厚い箱本で、6万円は高いが、おそらく版を重ねるわけでもない、 今回だけの少部数の印刷だろう、中身は確かに多くの全国事例が収録されていた。 出版元は大きな組織で、販売は末端の荒っぽいやりくちのできる、連中たちなのだろう。 気に入らなかったのは、和紙の名刺、透かしの御紋が入っていた。 名前も人を喰った、神野糺、カミノタダシ 彼らも自宅に帰れば好人物なのだろうと、思ってやることにした。 自分の暗部を炙りだされたようで、しばらくの間、苦い思いが消えなかった。 |
2021.09.29 |
タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。 ハードボイルの人間でもないし、その小説を読んだこともないが、その言葉には肝に銘じて来たつもりだった。 タフであろうとした、75年間だった。 人に負けたくない、人に軽く見られたくない、いつも肩ひじを張って生きていた。 おそらく最後の挑戦になるであろう、 今回の自分の小説創作に没頭するあまり、他人に対して優しさを失っていた。 高橋貞樹は20歳で「被差別部落1000年史」を著わし、30歳で獄死した。 若い時に、この書物を読んでいたら、自分は活動家になっていた。 活動家になっていたら、家族を持っていなかった。 自分にはそういった直情径行なところがある。 まったく対極の思想だが、山口二矢の行動に、理解を示したこともある。 カミユの「異邦人」が、若い頃の一番の愛読書だった。 ムルソーが司祭に向かって叫ぶ言葉、 「お前に何が分かってそんな偉そうな口が叩けるのだ! 消えろ!」 司祭はムルソーに、「あなたは盲いている」と。 そのシーンを思い出すと、今でもムルソーに同化していく、自分を知る。 「太陽の賛歌」に、そのタイトルを目にするだけで目頭が熱くなるものがあった ―太陽、ああ太陽…… 年経て、今は、お目出度くも、自分の書く小説に、目頭を熱くしている。 小説を書く合間に、ふと思い立ってブログを書いています。 自分の書く文章には、いつも、装飾、パフォーマンスがある。 舞台に立った役者のつもりで書いている。 だから、嘘がある。 「よく笑うようになった」 このタイトルがとても気に入っている、 |
2021.09.30 |
この話は、気の合う文学同人たちと酔いつぶれた折に、面白おかしく語ったもので、 すでに既定の事実となっている。 旅で見た、興福寺阿修羅像の貌の、これも一面です。 自分の小学高学年か、中学生になったばかりの頃の出来事。 思えば遠くに来たもんだ、60年以上も前の、大昔の話。 自分の村は40軒ほどの小さな集落だった。 それが或る時、二つに割れた。 家に居ると、一人のおじさん(20代のはず)が坂道を登ってやって来た。 「おう。隠士くん、親父は居るか」 これは普通の会話、 しかし、風体を見ると、手にマサカリを持っている。 「居らん」 顔も名前も知っている村のおじさんだから、奇異に思っても恐がって逃げるまでもない。 「そうか。帰ったらわしが話が有って来たと伝えてくれ」 「わかった」 子供の自分には、まだ何を皆が揉めているのか、よく分からなかった。 自分の父親は、40軒ほどの村の持ち回りの長役をそのとき務めていた。年齢50前。 何を揉めていたのかと云うと、 組織に加入するかしないかで、意見が割れていた。 父親は穏健派で、わざわざ寝た子を起すな、で、それが村の大多数の意見だった。 若衆たちは武闘派で、外部からのテコ入れを願い、未来の展望を描いていた。 小さな村なのに、十分に大きな対立構図になっていた。 結局、各戸の自由意志を尊重して、10軒ほどが組織の傘下に入った。 巷間、誤まって伝えられるような、その家がきれいになったとか、その家の子が大学に行ったとか、そんな外観の変化はなかったように思う、 ただ、村の中を、消防車が入れるような道に拡張整備されたのは、確かだ。 昔は消防車も自家用車も、坂道の一番奥の我が家にまでは入れなかった。 側溝を暗渠にして、車の通れる道にし、貯水池を潰して共同駐車場にした。 貯水池は、カエルやザリガニがいて、子供たちの格好の遊び場だった。 現代はもちろん、当時でも、金太郎ではあるまいし、マサカリを担いで直談判に来るなど、許されるものではない。 しかし、いざとなると武闘を厭わない、気質は、その後の自分の人生に決してマイナスではなかった。 自分は内向の少年から青年になっていったが、それは武闘に頼らなくても生きる方法があると考えたからで、どちらが正しいことであったかは、臨終の時にのみ、分かる。 ちなみに、先日の麻雀の話、新米教師は、このマサカリを担いだおじさんに、うっかり、 「君の村の近くには、……」などと云おうものなら、その場で鼻っ柱に一発喰らわされていただろう。 それでおじさんは逮捕されただろう。 このおじさんは、ごく真面目な人生を送って、数年前、帰郷した折に亡くなっていたことを知った。 この話に付随して、もう一つ、 20代の頃、夜中に車を走らせていて、信号のない交差点で軽い接触事故を起こした。 こすった程度の、警察を呼ぶまでもない、お互いに納得して別れた。 相手もネクタイを締めた気の弱そうな男だったし、自分もネクタイを締めた会社員だった。 もしものために、お互いの名前、勤め先の電話などを交換した。 そののち、相手の男から連絡が有り、指定された場所に行くと、ハハン、悪い予感がした。 彼は居らず、つまりは示談を丸投げされていた。 雑居ビルで、その一室は煙草のけむりと麻雀のザラザラ音で、そこを素通りして奥の部屋に通され、 「誠意を見せてやれ!」と迫られては、もはや逃げられない。 渋っていると、一人が自分の都之隠士という名前に気づき、 「オメエは、都之××を知っているのか」 村から離れた場所の、親たちは厚誼しているが、子供たちはほとんど付き合いがない、 「従兄弟です」 そこから態度が変わり、 「まあ、こうなっては仕方あるまい。頼まれた手前、アンタを手ぶらで返すわけにはいかん。気持ちだけでいい。何万円か出してやれ。相手には請求するな!」 それで収まったが、自分の不明と、コワモテに丸投げした男の卑劣さに、腹を立てたが、もちろん、何がどうなるものでもない。 そんなこともあった。 誰にでもある、人生の一コマ、だ。 |
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