私の履歴書
幼少年時代
2023.07.05
昨夜は、日にちの代わる頃に、久しぶりにカミナリが激しく鳴った。
窓を開けて寝るので、外の様子がよくわかり、突然の雨音にも叩き起こされた。
光って、しばらくして音が聞こえて来る、まだ遠いと思っていると、だんだん近くなり、光と音が同時になって、近くに何か所も落雷しているようだった。
そんなこともあって、そのあと頭の中が生き還ったのか、昔の子供時分のことが思い返されてきた。
自分の住んでいた村は、数えて戸数40軒ほどであったか。
田地一町歩を超える、いわゆる苗字株の本家百姓が2軒、その他は小作・雑農、藺草織をしている家も数軒あった。
田んぼの合間の畑地、山畑など、我が家は田地3反、畑作5畝、余技に父は熊手作りの竹細工をしていた。
米作が終わると、そこに裏作の井草を植え、泥まみれになって色付けしていた。
乾燥藺草は軽いが、前段の色付けに池につけた藺草は、少年には数束持つだけでふらふらする重さがある。
田んぼに広げて乾燥させる藺草は、雨に当たると斑に色落ちする。
空に入道雲が沸き起こると、どこの家も家族総出て取り込みにひた走る。
村に同級生のN君がいた。 N君の家は、上に紹介したどの職業にも当てはまらなかった。
両親とN君兄弟の4人家族、親たちは何をして子供たちを食べさせていたのか。
村株の枝分かれした分家ではなかった。苗字が違った。
子供目に、親しく付き合いをしていたようでもなかった。
一二度、家に遊びに行って、座敷に上がらせてもらったことがある。
廊下に大きな達磨さんが一人居た。
小学生にはびっくりする巨きな、成人になって知った達磨大師の絵のような、 N君の親父さんはもしかしたら彫刻家であったのかもしれない。
それも家族を顧みない、道楽な芸術家だったか、顔を見たはずだが、おっかなびっくりで、まるで覚えていない。
N君は中学を出ると就職し、数年は便りを耳にしていたが、やがて家族ともども村を出て、消息が不明になった。
N君も78歳、生きているかどうか、



2023.07.06
故郷の話を今少し。
若いときは語ることもないし、その必要もなかった。
年経て、どんな事が思い出されるのか、老人が、路傍の石や名も知らぬ花に、慈しむように独り呟くようなもの。
自然治癒力、それに頼っていた。
食欲が出ないので、葛湯や、効能怪しげな煎じ薬を飲まされるそんな中に、拝みバア、という者が村内に居た。
母娘、二代して、祈祷をしていた。
子供の目には、上はもう年齢不詳の妖怪婆さん、下は妙に艶々とした30代ほどの若年増であった。
それが親に呼ばれて、自分の病弱を治しにやって来て、ナムコンゴウ、ナムシンゴン、エイヤ、ボウジソワカ、と叫んで錫を振り、枕元を回る。
この祈祷師の母子は、何をして食っていたのか。
百姓仕事の手伝いなどしている様子はなかった。 行商などに出かけているようでもなかった。 近在の、病の家を聞きつけては、エイヤ、ボウジソワカ、と疫病退散を祈って、幾許かの謝礼を得ていたのだろうか。
たぶん、村内の相互扶助の精神は、祈祷師母子を見守っていた。
戦後の新生日本、昭和30年代頃まではまだそんな景色があった。
今思うに、たしかに自分の故郷の村は、周辺の村々とはどこか存在理由が異なっていたような気がする。



2023.07.07
故郷の話のつづき、
田地3反の米作り、反当り、たぶん5、6俵×3枚 16俵収穫して、5公5民? で農協に半分供出、買い取ってもらってこれがたぶん現金収入になった、
自家消費 残り8俵×4斗×10升 大人一人 一日3合×365日÷10≒100升=10斗=2.5俵
我が家は、大人2名子供6人家族であったから、当然腹いっぱい食えない、 何かをして補わなければならない。
畑作5畝に、サツマイモ、ジャガイモ、玉ねぎ、長ネギ、ゴボウ、白菜、大根、キュウリ、ナス、トマト、豆、ゴマ、サトウギ、里芋、 現在自分の好んで食べる野菜は当時の畑で採れていたものばかり。
魚は自転車で売りに来ていた、偶にのすき焼き肉もどこからか入って来ていた、
フライパン料理の習慣がなく、網焼き、鍋煮物が中心、漬物も毎食並んでいた。
梅干し、塩昆布、イカ田夫、など日持ちのする常備食がいつも出ていた。
小学生の頃、すぐ上の姉と二人で、夜明けて近所周りを「煮豆・昆布巻」と声に出して、家々を回って売りに歩いた。
父親はそれより前に起きて仕入れに行き、家に帰って子供たちの歩き分を残して、自転車で遠回りを行商していた。
自分が高校を出て働くようになった頃には、上の姉たちの嫁入り支度にわずかばかりの田地も売られて非農家となり、畑作も形だけのものになっていた。



2023.07.08
故郷の話のつづき ―②
昭和20年代はまだ戦後の色濃い光景が広がっていた。
子供の目とはいえ、子供だから見えた、飾らぬ真の姿であった。
今思い出して、元々の集落の家々の構えから、数段見劣りする、空き地か畑地かの上に、スレート屋根の、平屋の長屋が2棟立っていた。
都会の、岡山市辺りの空襲に焼け出されて、故地に戻った、あるいは伝手を求めて村に仮住まいを構えた、人々の貧しい家であった。
決して富裕ではない自分の口から、貧しい人々と言われては立つ瀬がないが、相撲取りに押されたら、すぐさま土台ごと壊れて吹っ飛びそうな、作りであった。
一組の老夫婦がつつましく暮らしていた。 爺の頭が、つるつるに剥げていたのを覚えている。
二軒長屋の一つに、職もなく、椅子に腰かけて空を見あげていたオジサン、目の先には、隣の物干し竿に大量の洗濯ものを干していたオネエサンとその子、
「目障りだ」
「取るんじゃないよ」
そんな会話をして楽しんでいたのではなかろうかと思える、草臥れた彦星と織姫、
村の人間ではない余所者は、世間が落ち着くと、自分が小学校に上がる頃には全員何処へともなく姿を消していた。
誰が建てて住まわせたのか、公共の物ではなかったはず、簡易長屋もいつしか元の鞘の空き地に戻っていた。

小学生になり、登校途中に戦後の家を喪った人々や戦争孤児らが入居する『コーセーカン』と皆が呼んでいた施設があって、そこから通うS君と親しくなった。
言葉が江戸っ子気で、少し乱暴者であったが、下校途中にそこの門まで一緒によく連れ立って帰った。
その年齢になるまで村から出て遠出することはなかったので、そこに塀を構えた収容施設がいつできたのかも知らなかった。
1学期のみか、もっと短い期間であったか、学校に来なくなり、それきりになった。
先生からどんな説明があったか、施設の建物もいつしか取り壊されていた。
70年近く前の、あっという間に視界から通り過ぎていった、S君の名前を憶えているのは、想いが深かったからだろう。
数年前、地元の山陽新聞のネット記事で、『コーセーカン』事件というものが取り上げられているのを偶然に見つけた。
たしかな記憶ではないが、『コーセーカン』の管理者たちが入居者の補助金を掠め取っていた、という騒動内容であったように思う。
『コーセーカン』という言葉の響きに、記憶に残っていた幼き友の、当時に置かれていた境遇とそれを食い物にしていた者たちが居たことに、憤りと悲しみがある。



2023.07.09
故郷の少年時代つづき ―③
昨日の書いた「コーセーカン」について、気になり、調べた。
子供の自分は知らなかったが、大変な事件であったようだ。
以下、wikiより抜粋

岡田更生館事件(おかだこうせいかんじけん)とは、岡山県吉備郡岡田村(現倉敷市真備町岡田)に1946年(昭和21年)12月から1950年(昭和25年)まで存在した浮浪者収容施設・県立岡田更生館で起きた組織的な監禁、暴行傷害、殺人事件である。
外部からは「模範施設」と評価されて施設の内情が閉ざされていたことから、犠牲者は開設から2年余りで76名にものぼった。
この実情は、1949年(昭和24年)2月に施設収容者の一人が脱走して毎日新聞大阪本社にリークしたことを契機に、同社社会部の記者であった大森実と小西健吉が潜入取材した結果、社会的に知られることとなった。
その後、本件は国会でも取り上げられて、太平洋戦争後の混乱期における弱者支援制度の構造的な問題が指摘された。 事件発覚から1年後には館長や県職員らに判決が下っているものの、罪状は業務上横領ないし私文書偽造であり、殺人・暴行は含まれていない。
事件後、岡田更生館は改組名称変更し岡山県吉備寮となるも、1955年(昭和30年)に廃止。
1956年(昭和31年)には更生施設救護施設に改組されたが1957年(昭和32年)に廃止された。
その後、跡地には民間の病院が一時期開設されたが閉鎖された。

自分は昭和20年生まれであるから、たぶん27年春に小学校に入学している。 そのときの岡田小学校新入学生、男女27名の中に、S君が居た。
自分たち子供は何も知らなかったが、子供にしては早熟な感性を持っていた自分は、S君に只ならぬものを感じて、親しく話すようになった気がする。
S君がいつから「コーセーカン」に収容されたかわからないが、S君は内部の恐怖にいつも迫られていたに違いない。

「コーセーカン」について興味のある方は 岡田更生館事件 - Wikipedia に詳しく載っています。



2023.07.10
故郷の少年時代つづき ―④
70数年前の「コーセーカン」事件を詳しく知り、衝撃であった。
S君のことを想い出さなければ、このことも闇に消えていた。
昭和33年に中学生になり、アイアムアボーイ、と発音するのも懐かしい、新米英語教師の村木先生に、「大きくなったら小説家になりたい」と話して、「趣味にして生きたらいい」と励まされた。
ちなみに自分を高校に進むようにと親に説得してくれたのは、この村木先生であった。
スーパーカブに乗って、顎を突き出して、澄まして隣の総社市から通っていた。
中学生時分に、二度ほど自宅にお伺いしたことがある。
雪舟で有名な井山宝福寺に近い、自分には大きな邸宅に見えた、静かな佇まいであった。
自分より10歳ほど年上であったから、まだ存命であるか。

「コーセーカン」のこと、以下、wikiより。

事件の記憶
千光寺東側の山林の中にひっそりと佇む慰霊碑と石版
2019年10月6日撮影、命尊碑の傍らに立つ石版。
「すぐる太平洋戦争は痛恨のきわみ」と碑文が刻まれている 。
1988年(昭和63年9月)、亡くなった70人超の入所者を追悼しようと地元の元小学校教諭・加藤昌則が中心となり、有志16人で春の小川村というグループが結成された。 犠牲者が焼かれ埋められた場所に命尊碑(いのちたっときひ)と刻まれた石碑を立て、彼岸盆には慰霊の法要が行われて来た。
しかし事件から70年の2019年、グループは大円寺(真備町辻田)の住職が一人で活動しているのみで、継承が望まれている。
記事の有志16人の中の半数8名は、自分の村に関わりのある、人たちであった。
自分は30歳(昭和50年)になって、村を出たので、このような命尊碑が建てられた声を知らなかった。
自分と一回り大きな者たちとやや年少の者たち、今度故郷に帰るときには、彼らに声をかけてみたいと思う。

「コーセーカン」について興味のある方は 岡田更生館事件 - Wikipedia に詳しく載っています。


2023.08.26
父は73歳、母は103歳、で没した。
その胤を継いだ自分は、両親の中間の88歳までは寿命を保証されている、そこまでは生きなければならない、と考えている。
今年78歳になるから、あと10年は生きられる。
五臓六腑、肩、腰、膝、どこも痛みはない。血圧、糖尿、薬の世話になったこともない。
この1週間、前に書いた小説の書き直しにかかりきりだった。
歴史モノは、自分の歴史感のスタンスで書いているので、それが取り上げられなかったからといって、まったく大きな落胆ではない。
書き直したのは、現代モノ、最初自伝のような一人称「吾」で物語を進めていた。
今度は三人称「主人公名」で話を進めた。はじめて自分は小説が書けたかもしれない、充実感がある。
自分は40歳の頃、自営業に入り、15年間ほど栄耀栄華を味わった。
プチではあるが、平均的なサラリーマン給与の数倍の収入を得た。
当時バブルのはじける直前、自分には出来過ぎの、高価物件の家を建てた。
BMWのオープンカーを乗り回し、小遣いも遊びにも不自由しなかった。
60歳になった時、突然会社を畳み、以後は自分のやりたかったことをやると宣言し、妻も呆れていたが反対しなかった。
二人の子供たちは、父親の故郷については自分が何も話さないので、何も知らないと思う。 そして現代の教育は、そのようなものは在ってはならないと教えている。
妻の3回忌に、二人の子たちも集まり、そこで{パパは小説を書いている。作家になるつもりで頑張っている」と初めて話し、
「知っている。頑張って」と二人とも言ってくれた。
父親がどんな小説を書いているか、普通の読書好きよりは偏っているだろう、書棚の本を見ているから、その言葉が出たのは素直に嬉しかった。
どちらの子とも、とにかく健康で無事に大きくなってくれればいい、が妻と自分の教育方針だったので、妻の居ないことだけが残念であるが、現在の有り様に不足のあろうはずもない。

あと10年、何かを成し遂げるには、十分な時間である。
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